冬の夜

 冬の夜

きり


 その違和感はずっと小さな頃から彼の中にあった。
 あえて意識することがなければいつの間にか消え去ってしまう程度のものではあったが、ふとした拍子に意識の表層に浮上し、一瞬といえどそれは確かに彼を、彼を取り巻く外界から切り離してしまうものであった。

 それに名を付けることは出来なかった。当て嵌まる言葉を見つけ出すには、彼はまだ幼く、知らないことの方が遙かに多かった。

 

 

 彼は星が好きだった。
 研究者である父親の影響を受けたのか、未知に対する探求心は他のこどもに比べるとずっと強いように見える。譲り受けた古い天体望遠鏡をこども部屋の窓際に置き、晴れ渡る夜は円を描く光点の世界に没頭し、遅くまでそこで過ごす。母親が窘める言葉にも耳を貸さない。

 その夜も、やはり彼は煌々と輝く星の光に誘われ、大きな窓硝子を目一杯開けて、到来した冬の、冷たい空気を部屋中に満たしていた。深く息を吸い込み、吐き出すと、夜の色に呼気が白く滲んでゆく。冷たく澄んだ気は体の隅々にまで行き渡り、外と自分の中の温度差を限りなく零へと近づけ、宇宙と自分がひとつに溶け合うような、そんな錯覚さえ起こさせるのだ。
 眼を閉じれば意識は何処までも広がる空間へと融解し、その果てのない深さに全てが飲み込まれそうになる。
宇宙は人の力の及ばぬ驚異だ。

 またひとつ瞬いた星の光に、彼は遙か遠い彼方へと想いを馳せた。瞬きのひとつひとつはまるで彼を呼んでいるかのようで、長い時間星の世界に浸れば浸るほど、懐かしいようなせつないような、胸が締め付けられるような痛みを味わうのだ。そして決まって、「かえりたい」という気持ちが涌き起こる。その度に、自分はどうかしていると思った。
 どこへかえるというのだ。父も母もいる、ここがかえるべき家であるというのに。

 

 

 

 

「タケル、まだ起きているの?」
 うすく開いたドアから廊下の灯りが差し込んで、優しい声が滑り落ちた。幼い息子の夜更かしを咎めるでもなく母親は、タイムリミットを宣告し、ベッドへ入るよう言い付けた。時計を見れば既に夜中を過ぎている。
「明日からまた学校よ。寝坊して遅刻したい?」
「あと五分したら寝るから。五分だけ、いい?」
「あら、がんばるのね。そんなに今日は星がきれいなの?」
「―――うん。きれいだよ」
 手を伸ばせば、あの光の海に届くのではないかと思えるほどの瞬き。何時にない離れがたさに、彼――タケルは窓辺で空を仰ぎ見た。それにつられるように、母親もまた息子の視線を追う。
「本当、きれいねぇ」
 母親の声はいつも落ち着いて優しい。こどもを叱る時でさえ荒げる事なく、それがかえって本人の自覚を促し、悪いことは悪いと納得させる。
 タケルはその横顔を見つめながらこれが自分の母親なのだと、ひらめきにも似た思いで認識した。

 ふと、胸がせつなくなった。

「風邪を引かないようにね」
 背中越しに、母親の優しい声。
「おやすみ」
「―――おかあさん」

 タケルはドアの向こうへ消えていこうとする母親にすがりついた。涙があとからあとから零れては頬を濡らした。嗚咽を抑えることが出来ず、しゃくり上げて泣いた。
 背中を撫でるてのひらの暖かさに、また涙があふれる。
「タケル、タケル、どうしたの?」
 母親の問いかけに、しかし首を横に振ることしか出来ずにタケルは泣いた。
 不意に訪れた悲しみは、タケルの心を抉るように激しかった。けれど、何がこんなに悲しいのか分からない。それは自分の悲しみのようでもあり、そうでないような気もした。ただひたすらに、母親が愛しかった。





 十歳の冬の夜だった。





終わり


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