夏休み
きり



  

 
 昨夜は嵐があって、目覚めた時には外はひどい有様になっていた。
 
 飛び散った木の葉が濡れて外壁や路面に張り付き、弱い枝は折れて庭の芝生の上に散乱し、朝からタケルは母を手伝ってそれらの片付けに追われていた。それも再び降り始めた激しい雨に手を止められ、何もかも中途で放り出したまま家の中に逃げ込んだのはまだそう時間も経っていない頃。濡れた体を拭いて、母が入れてくれた紅茶を飲みながら、2階の窓からまた荒れ始めた外を眺める。
 
 いつもなら、見下ろす木々の狭間に見える水平線が、今日は雨に混じって見えない。
 海はさぞかし荒れていることだろう。
 
 ――今日は、あいつと海に行くって約束してたんだよな。
 
 夏休みに入って初めての海水浴のはずだったのだが、これでは今日はもう無理かもしれない。
 
 
 
 ふと聞きつけた音に真下の玄関を見下ろすと、黒塗りの車が一台、門扉の前に横付けされた。雨風の中を、見慣れたフォルムのそれからすべり出た長身の影が、ドアを閉めるや門扉から玄関までの距離を全力で走り抜ける。
 来たのか、と思うよりも先にタケルは部屋を飛び出し、無謀にもこの雨の中をやってきた男をタオル片手に出迎えた。
 
「今日はもう来ないかと思ってた」
 
 もう少し様子を見て、それで電話をしようと思っていたのだとタケルが言うと、
 
「うん、でもうちにいても暇なだけだし」
 
 被害らしきものもなかったしね、と付け加えて、マーグはアプローチの窓から外に目をやった。同じように玄関の外を見やると、停車したままの車の運転席から男がこちらを見ていた。マーグが軽く手を振り、男はそれに応えた後、ゆっくりと車を発進させた。
 
「乗せてもらって助かった。あ、おばさん、おはよう」
「まぁ、この雨の中を来たの?」
「父の車に乗せてもらって。よろしくって言ってました」
「それはどうも、ご丁寧に」
 
 
 
 
 
 雨はまだ止まない。
 さっきよりも尚勢いを増して、地上のもの全てを叩くように降っている。跳ね上がる水煙。どこもかしこも霞んで、窓の向こうの風景は輪郭を失った水彩画のようだ。
 
 そして、あきらめきれない気持ちで窓の外の壮大な絵画を見つめる男がふたり。
 
「今年はもう泳げないかなぁ…」
 
 タケルはベッドに寝転がりながら、相変わらずの天気に溜息をつく。
 
「そんなに泳ぎたかったのか」
「そんな時ってない?無性にこれが食いたい時とか、あれを歌いたい時とかっていうの」
 
 2杯目のお茶を啜りながら、
 
「なんかね、夏休みに入る前から無性に泳ぎたくってさ。こないだまでむちゃくちゃ忙しかったから、ほとんどもうあきらめてたんだけど」
 
 大学に入ってから課題に次ぐ課題でとにかく毎日が多忙で、息を抜く暇さえなかった。今日だって本当なら大学で研究レポートにかかりっきりになっているはずだったのだが、メンバーの一人が急用で帰郷したためにキャンセルになった。
 
 ぽっかりと開いたエアポケットのような休日。慌ててマーグに電話をして今日の約束を取り付けた。眠る前にはもう外は荒れ始めていたけれど、夜が明ければ風は収まっているだろうと思ったのに。
 
「明日からまた忙しくなるのにー」
「デートする暇もないんだもんなぁ。おまえんとこの先生、厳しすぎ」
 
 可哀想ね、と同情をくれるマーグに、タケルはベッドに突っ伏す。
 
「あぁ、でもほら、風が収まってきた」
「…ふーん…」
「雨もやみそうだよ。ほら、空の向こう。少し明るくなってきた」
 
 マーグの言葉につられてうっすらと瞼を上げると、確かにさっきまではなかった光が窓から差し込んでいる。体を起こしてマーグの隣に立つ。見上げる空。雨雲は所々が千切れ始め、あっという間に空の紺碧色があちこちから零れ出すのが見えた。
 
 雨音が、木々を大きく揺らしていた風の音が少しずつ小さくなってゆく。雲の隙間から乾いた太陽が顔を覗かせ、一瞬、日差しが強く目の奥を灼く。待ちこがれた真夏の太陽。
 
「行こうか」
 
 ほぼ同時にふたりの口から飛び出した言葉はやはり同じで、多分考えていることも同じだろうと、タケルは思った。
 
 
 
 小降りの雨の中、緩やかな斜面を自転車のふたり乗りで駆け降りた。大粒の雫に時折肌を叩かれ、いつの間にかずぶ濡れになりながら砂浜を目指した。雨はやみ切ってはおらず、風も鳴り止んではいなかったが、海に着けばきっと、嵐の名残すら感じさせないくらいに空は晴れ渡るに違いないのだ――。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 白い波頭が砕け散る中に、長身の影がふたつ。
 
 見事に夏の姿を取り戻した浜辺を目にしたふたりは、自転車を放り出すと、どうせ途中でずぶ濡れになったのだからと、シャツだけを脱いで海に飛び込んだ。波はまだ高かったが、強く打ち寄せるそれはかえって気持ちが良かった。
 
 波の下へ潜る。いつもなら眩しいほどの砂の白さも、今日はさすがにくすんで見える。それでもなお美しい、この街の海。
 息を切らせて今度は波の上へ。目の前には緑の髪。タケルは手のひらで波をすくい、勢いよく飛沫をマーグへ飛ばした。
 
「やったな」
 
 波を掛け合いながらじゃれ合い、こどものようにはしゃぐ自分たちが可笑しくて、声を上げて笑う。同い年のくせに普段は大人ぶることが多い兄。
 
 けれども考える事なんて同じなんだ。こっちから誘ったときは、こどもの我が侭を受け止めるかのように頷いた。あの雨の中、俺はもう半分あきらめかけていたのに、「暇だから」なんて理由を付けておまえはやって来た。
 
 ――無性に泳ぎたくってさ。おまえもそうだったんだろう?
 
 
 
 煌めく太陽と白い砂。
 傍らには、誰よりも近い半身がいる。
 
 
 
 
 
 終わり


6000を踏んでくださったたっくるさんからいただいたお題
「双子で海水浴」
お、お題を頂戴してから危うく二夏越すところでした。
遅くなりまして申し訳ございませんっ
おまけにあんまり海水浴してませんし、もぉ…(涙)
 
2002.8.24 きり

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