万華鏡
薔薇子さま
ロゼはいつもと同様、月のはじめにバラの花を飾る。
寝室の一角にあるティーテーブルには常に白いバラがあり、月のはじめにはひらきかけの蕾みだった花は、毎朝彼女に水入りされて月の終わりにひらききる。
この習慣はもう三ヶ月続いている。
そして花が八分咲きになった日の深夜、きまってその人は現れる。
仕事を終え、洗い髪が僅かに寒く感じられ、ロゼがショールを取って戻ってくると、フロアライトのシャンパン色の鈍い光が花びらに零れる一角に、その人はふっと現れた。
―――――――――窓は、開いていない.....。
「待っていたわ。....マーグ」
「花をありがとう、ロゼ」
マーグは生前と変わらぬ甘やかな美しさを湛えて話し、微笑む。
けれど生前好んだ白いバラの香りを愉しむことはできない。ただその気持ちを受け取るだけ。
***
マーグが初めてロゼを訪れたのは、彼女が作戦スペシャリストになって最初の壁にぶつかった時だった。
「私はここに残るわ。ギシン星のため、いえ地球との絆になるために。
――――――私はあの人たちとギシン星の新しい出発のために働くわ。そしてあの人たちと生き抜く。それを生きがいにするの―――」
それはロゼの心からの願いであったが、
「俺と一緒に地球へ行こう」
マーズの言葉は何とも説明しがたい動揺を彼女に与え、涙がとまらなかった。
あの別れの後、ロゼはギシン星の防衛作戦局のスペシャリストの任務についている。
しかし未だギシン星の動向に敏感な元・植民地の惑星はこの防衛作戦局を秘密警察のように誤解しがちだ。
ギシン星としてはあくまでも戦わずして国家を守る――――緻密な情報収集により争いを未然に防ぐことを第一としている。
そのために防衛作戦局に集められた情報は平和主義のもと、慎重に取り扱われる。
まだ不安定な情勢下において第二・第三のズールを生み出さないためにも必要な機関だった。
...が誤解されやすい微妙な任務、オーバーワーク、未だ意思統一の希薄な周囲...ロゼは心身ともに疲れ果てていた。
マーグがロゼの前に現れたのは、それがピークに達した時だった。
初めてマーグのビジョンを見た時、ロゼに恐怖や驚きはなかった。
心から詫びたくて夢でもいいから逢いたかったと泣き崩れた彼女を制し、マーグは箴言を伝えた。
「国家の情報を扱うのは微妙で神経をすり減らす任務だ。
しかし戦わずして国家間の平和が保たれるなら、悪い方法ではない。
理念なき政策も人格なき知識もいい結果は生まない。今は辛くても信念を忘れてはいけないよ、ロゼ。
それと....方向性さえ間違えなければ疲れも弱音も吐き出した方がいい。人間性のないオーバーワークもいい結果は生み出さない。」
「また私を助けに来てくれたのね....地球戦線で私が危機に陥るといつも助けに来てくれたように。
....逢いたかったわ、マーグ。
あなたにずっと言いたかったことがある。
私は...あなたの人生を断ってしまった。どう詫びても許されることじゃないけれど....ごめんなさい、ごめんなさい」
マーグは彼女を優しく抱き起こす仕草をした。
...が、彼の手は虚しく彼女の肩を透りぬける。
「ロゼ、君が俺を殺めた、なんて思っていない。
俺はあの時、マーズとロゼと二人とも助けたくて飛び出していった。マーズだけでなく君も助けたかった。
作戦に失敗しつづけた俺と君の微妙な立場を打開するために君が血気に逸ったのと同様に。
....あの約束を覚えているか?」
「ええ」
ロゼはマーグを見上げた。
涙でぼやけた視界で彼は生きているかのように見えた。
***
「ロゼの故郷が見てみたい」
マーグがそう言いだしたのは洗脳された彼が戦闘隊長を務めた地球戦線の真っ最中だった。
過去の記憶がない不安感から過度の興奮状態の発作を起こし、精神状態が安定しない日々が続くマーグのために、ロゼは昼も夜もなく看護にあたり、精神安定効果のある石やハーブ、香...あらゆる物を取り寄せた。
医師が薬を投与することもあったが、あまりに頻繁な投与はマーグの神経痛めつけ、これ以上の薬の使用は危険な状態だった。
取り寄せた品はどれも気休めのようでマーグの神経は危険な状態を彷徨っていたが、あるときマーグは小さな万華鏡を手に取り、それをとても気に入った。
筒の部分は神経を和らげる効果のある黒の琥珀で、繊細な彫刻が施された美しい品だった。
細工師の技術が注ぎ込まれたその万華鏡は、小さいが覗き込むと一面に明るい蒼穹が広がり、筒の微妙な揺れによってそこに細かな貴石が一瞬の美しい絵を創り出す。
マーグは重症の発作にさいなまれると黒琥珀の万華鏡を握り締めながら、ロゼの胸に顔をうずめ、幼い子のようになだめられ、嵐が過ぎるのを待った。
しかし少しづつ安定してくると、万華鏡を覗き、うつろいやすい絵を眺めながら、ロゼにさまざまなことを問いかけるようになった。
「ロゼ、この万華鏡の空はなぜこんなに明るいんだろう?
窓の外とはずいぶん違う」
「万華鏡の起源は8番惑星です。
8番惑星の空は、そのような色をしています。
無限に続く青空が特徴的なので中心地はvolta del cieloとかLa citta celestinaとか呼ばれています。
蒼穹の城郭、といったところです。...要するに空以外に防御壁がないということに他ならないのですが...」
少ししゃべり過ぎた...とロゼは思った。
故郷のことになると未だ動揺を隠せない未熟な自分を恥じた。
「君の故郷の?」
「はい」
「行ってみたい、ロゼの故郷に」
「え?」
「俺には過去などない。
最近はそれでもいい...と思えてきた。過去がなくても未来がある。
マーズを倒したら、俺と君は?」
「...それは」
ロゼの答えを待たずにマーグは軽やかに語り出した。
「ロゼの故郷へ行ってみたい。ロゼはほんの少ししか話してくれたことはないが、故郷の話をする時のロゼは少し嬉しそうで、....とても綺麗だった」
「私が・・・ですか?」
記憶はもどっていない。
むしろ完璧に消し去られている。
だとしたら、この前向きな明るさは何なのだろう?
すべての記憶を奪われても消し去れない、彼の本質?
戦うだけのバトルマシンに作り変えられても、その先の未来を夢見ようとする、生命力?
胸がチクチクするような説明しがたい感情に押し流されそうになりながら、ロゼは必死で心を鎮め、本来の任務である洗脳教育をマーグに施し始めた・・・。
マーグもそれきりその話はしなかった。
だが、地球攻撃の前線基地である第10番惑星を発見された責を問われ、ロゼが死を宣告されたとき、マーグは身を挺して彼女の命を救い、またそのことにふれた。
さも重要なことのように。
「ロゼが副官だった偶然に、俺は感謝している。
ロゼでなくては俺はとっくに錯乱していたに違いない。
だから礼など言わなくて、いい。でも....万華鏡の空を」
「え?」
「本物の蒼穹の城郭を、いつか見に連れてってくれ」
その後ロゼが地球のバトルキャンプへ潜入し、捨て身ともいえる戦術を繰り広げた時も、マーグは必ずロゼの危機を救いに現れた。
何度目かの危機を救われた後、マーグがもらした一言はロゼの心を激しく掻き乱した。
「ロゼはもう戦わないほうがいい。
俺はもうロゼにこんな危ない橋を渡らせたくない」
「いいえ、いいえ!ギシン星の戦士として戦うことに迷いなど、ありません!」
「...次は俺が一人で行く!
これが終ったら一緒に蒼穹の城郭を見に行こう」
マーグがなぜこんなにロゼの故郷にこだわるのか、彼女には解らなかった。
マーグはほんの少し故郷の話をしたときにだけ―――その針の穴のような隙間から垣間見える、温かなロゼの本質を感じていた。
バトルマシンとして一寸の隙もなく生きるロゼではない、本来の彼女を見逃さず....。
そんなロゼの内面を通じ、マーグは失った自分の過去を―――思い出せない故郷のぬくもりを感じようとしていたのかもしれない。
記憶をなくしたマーグにとって、ロゼはすべてであり、かけがえのない存在になっていた。
だから、彼は一人で行った。
「次」の戦地は、南極――――――。
***
「8番惑星の空は今も変わりない?」
「ええ...」
「ロゼ、いつかその万華鏡を持って8番惑星を訪れてくれ。
その万華鏡には俺の影が宿っている・・・俺がその万華鏡に惹かれたのは、一度見失った美しい絵は手放したらもう二度と出逢えない...そんな儚さに当時の自分を重ね合わせていたせいかもしれない。
だからそれを通して蒼穹の城郭を見せてくれ。
俺は...縁のある所へしか現れることができない。
それでもう俺との約束は忘れていい。
もう俺のことで悔やんだり悲しんだりするロゼを見たくない。
俺はここにいる。
俺はマーズとロゼと二人とも救いたかった。だから、君が立ち直るまで傍にいよう」
次の月も、また次の月もマーグは彼女を訪れた。
ロゼはマーグに逢える夜と彼の助言を支えに、彼の生前好んだ白いバラの花を生けて彼の訪れを待った。
マーグの温かな言葉にどれだけ励まされたことだろう....。
***
すこしづつ周囲との意思統一がはかられ、ロゼも本来の彼女らしく明晰な頭脳と行動力で人望と新たな立場を築いていった。
「ペースを掴んできたね」
八分咲きの白いバラの一角でマーグが微笑んだ。
「ええ。でも報告される”部分”から”事実の詮索”に拘泥するのは危険よね。
それが必要な時もあるけど...真実の全体を見失わないように、参謀本部にこもっていないで、時には私自身出向いて調査する必要があるかも」
明るく仕事の抱負を語るロゼは希望に輝いていた。
「レディのように振舞い男のように思考する作戦スペシャリストって言われているんだろう?
格好いいじゃないか」
「そんなことまで知っているの?」
からかわれてロゼは照れたように苦笑したが、すぐに思いつめた口調で言った。
「まだまだよ。そんなふうな揶揄を受け止める包容力は私にはないわ。
マーズは...今マルメロ星の紛争に力を貸しているそうよ。自分たちのことでも精一杯のはずなのに、助けを求められれば、その手を振り払わないどころか最期まで見守って力を貸す覚悟さえ持っている...とてもかなわないわ。
いつか、マーズと逢える日までに、私もそんなふうに強く、懐の広い人間になりたい。
あの人に恥ずかしくない自分でありたい...」
最期のほうは自分に言いきかせているように聞こえた。
マーグはロゼの独り言のような言葉の中に、彼女自身気づいていない強い感情を見逃さなかった。
―――――――ロゼはマーズを愛しはじめている
いつから?
どうして?
そんな説明ができるくらいなら恋は恋たりえない。
それゆえ人一倍理の勝ったロゼが自分の気持ちに未だ気がつかないのも道理だ。
すこしだけ悲し気に目を伏せたマーグのビジョンは、空気に溶けるように薄らいでいく・・・。
―――――――もし、俺が生きてあのまま同じ時を過ごしていたら、君がそんなにも再会の日を望む相手はマーズだっただろうか?それとも・・・。
一緒に過ごしたあの短い日々で俺たち二人が見失ったものが、もしかしたらあったかもしれない。
しかし、もう時は戻らない。
今はロゼが俺のかけがえのない半身を愛しはじめた運命に感謝しよう。
もう俺は自分の心残りのために、君の前に現れない。
・・・さよなら、ロゼ
「え?」
呼ばれた気がしてロゼは顔をあげたが、そこにはもうマーグのビジョンはなかった。
そしてその日を限りにマーグは現れなくなった。
それでもロゼは白いバラの花を飾りつづけた。
花びらがもう何度散っていっただろうか....。
***
ロゼは黒い琥珀の万華鏡を持って8番惑星を訪れた。
中心地から少し外れた草原へ出ると、一点の曇りもない蒼穹がどこまでもつづいている。大地を包みこむように。
幼い頃、ロゼはこの空が蒼い宝石でできていると思っていた。
星の輝きは張りめぐらされた蒼い壁のひび割れ、その向こうはあの世だと信じていた。
―――――もしそうなら飛んで行くのに。マーグに会いに行けるのに。
まだ私はあなたに伝えていない事がある。いまになってやっと解ったの。
洗脳を施していたのは私のはずだったのに、マーグの存在は私の心にまっすぐ切りこんで、いつの間にか私のバトルマシンとしての鎧を溶かしていった...
あなたの死後、マーズに出逢って魂を揺すぶられたわ、こんなに強い衝撃を受けたことがない...と思った。でもそう思えたのは、マーグが時間をかけて私の心の鎧を溶かしてくれていたから...。
―――――マーグ!見える?ここが蒼穹の城郭。やっと来たのよ。ねぇ、見える?!
「応えて...お願いっ」
心の叫びは虚しく草原の風に消えた。
黒琥珀の万華鏡をにぎりしめてロゼは地に伏して泣いた。
その夜、ロゼは故郷の屋敷に泊まった。
寝室の窓辺に白いバラを飾り、黒い琥珀の万華鏡をそばに置いた。
―――――これはここに置いていくわね。
この窓からは空がよく見えるから...。
泣きはらした目を冷やすうち、いつのまにかロゼは微睡んでいた。
ふと目が覚めた時マーグの気配を感じ、ロゼは慌ててバルコニーへ飛び出した。
「マーグ!マーグなの!?」
「ロゼ、君の力を借りたい。マーズの命が危ない」
ロゼの瞳に驚きと、マーズを思いやるとてつもない不安、なんとしても救いたいという強い意志がみるみる湧き上がってきた。
―――――ロゼはマーズを愛している...。
それでいい、ロゼ。自分の気持ちに気づいて、そしてその恋を永遠のものにするといい。
一度見失った瞬間には、もう二度と出逢えないのだから。
「ロゼ。マーズを救ってくれ!地球へ行って、マーズを―――!」
――――今度は俺とロゼでマーズを救おう。
君と俺の気持ちが恋を超えたところで一つになった時、きっと俺の心残りも昇華されるだろう...薔薇の騎士となって。
Viva rosea
生きて幸せを掴んでくれ――――
マーグは昼間見た蒼穹の城郭を瞼によみがえらせながら、その国の言葉でロゼの前途を祝福した。
END 物語は「現在→過去の回想→更なる過去の回想→過去の回想→現在」
という構造で成り立っております。それぞれ、
現在=青
過去の回想=緑
更なる過去の回想=黒
と表示しました。
薔薇子さんの兄もロゼも優しくて悲しい。
せつなくて涙なしでは読めませんでした。
このプラトニックなところがさらに胸きゅん(死語?)
ありがとうございました。
2003.1.28 きりNovel
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