檸檬2 ヴァイオリン様
木枯らしが吹き荒れ、流れ星がいくすじか流れて行った。 「さあ、もう、お顔をお上げなさい」 静子の優しい促しに、ロゼは素直に頷いた。 「ここは冷えますわ。お茶にしましょう、それともホットミルクかしら?」 静子はロゼをうながして、階下の食堂の明かりを灯した。 「小母様」 涙の乾かぬ目で、ロゼは呼びかけた。 (どうして泣いてしまったのだろう) ロゼは先刻を振り返った。 (マーズ) タケルがなにか自分に、一生懸命に伝えようとしていた。 聞いてしまったら、なにか張り詰めていたものが壊れてしまう、そんな不安もないわけではなかったが、そこまで考えが及んだのでもない。 タケルがひとつ、咳をするだけで、もう、たまらなかった。 もし、口づけて去痰してくれと言われたら、迷わずそうしたかも知れない。 そんな瞬間に、頬をなでるタケルの手のひらが迫ってきたのだ。 (死なないで) 思わず言ってしまいそうになる。 (マーグ) マーグを思うとき、次になんの言葉を続けて思えば良いのかがわからない。 (マーグごめんなさい) それしか思い浮かばないのだが、そんなで良いのだろうか。
「なあに、ロゼ?…あら、牛乳を切らしていたわ。レモンティでよろしいかしら?」 静子の明るい声に、ロゼは、ハッと向き直した。
(ここに、いらっしゃったのだわ) それは、ロゼが静子の姿を屋上に見たときに、ロゼの胸にあふれた言葉だった。 祈る静子の姿を見たとき、ロゼは、不意に、せつなさが胸に迫り、同時に、不思議な安堵感にも似た共感に心が支配されるのを感じていたのだ。
だが、「…怖い…」 そんなロゼが、今夜、あの屋上で、タケルの命を自分と同じように強く惜しむ女性、養母の存在に立会い、この祈りを捧げていたのは自分だけではなかった、ここにもいらっしゃった、ひとりぼっちではなかった、という想いと、誰かに不安を打ち明けてしまいたかった、誰にも言えなかった、という想いとが、大きく胸のうちに膨らむのを、止めることが出来なかったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、」 誰に、何を謝るでもなく、胸にほとばしる想いに身を任せ、嗚咽しながらロゼは頭を垂れていた。 「泣いても良いのですよ」 静子はあやす様にロゼの頭を撫でた。
あまり親に甘えることが上手でなかったロゼ、人前で泣いたことが無かったロゼには、いちど涙が堰を切ってしまうと、身を任せるより他に道がなかった、潮流に逆らえぬ流れのように。
(泣いてはいけない) ロゼは、必死で押さえようと試みた。 (わたしはとりかえしのつかないことばかり…!繰り返していた…・!) 常に頭から離れないマーグの死のことも、いっそう鮮やかにロゼの胸に蘇っていた。 どう考えても、甘えて泣いている場合ではない、そう自分を叱咤すればするほど、逆に、静子の手のぬくもりが伝わり、嗚咽が止まらないのだった。
(お礼を申し上げなければならない) バトルキャンプの食堂で、静子の淹れてくれる紅茶の心地よい音を聞きながら、ロゼは、かつてギシン星の戦士として戦っていた日々のことを思い起こしていた。
(初めて明神夫人と出会ったとき…!) (わたしは彼女らを人質に取り、マーズに決闘を申し込んだ。死んでマーグに詫びようと思っていた。『復讐の鎖を断ち切ること』身を呈して叫んでくれたのは明神夫人だった。) さらに振り返る。
ロゼの回想を破ったのは、静子の意外なひとことだった。 「貴女とこんなふうにお会いできて、うれしいわ」 静子は笑って、レモンの香りのする温かいカップをロゼに手渡した。 「?!」 ロゼは、ためらいがちに、しかし心に言葉が浮かぶままに、ポツポツと語り始めた。 「マーズにも…うれしいと、言われたんです」 静子は微笑んでいた。 ロゼは震える声で吐露した。 「薔薇の騎士…だった記憶が、ありません。マーズの役に立てたのか、心元ありません」 静子はリラックスした面持ちで、自由に話し始めた。 「ねえ、ロゼ。もしも薔薇の騎士が、タケルの言うとおり、貴女の体を借りたマーグの意思だとしたら、貴女に戦いの記憶がないのは、貴女の心に負担を残すまいとした、マーグの思いやりかも知れないわね」 ロゼはため息をついた。 マーグの、思いやり… タケルや静子の優しさ。 「でもわたしは自信がありません」 こんな言い方でまた甘えてしまった、と、自分に酷く驚きつつ、静子の母性に包まれるようなのであった。 静子は座り直すと、ロゼに向き合って言った。 「ロゼ。タケルが貴女にお礼を言ったのは、決して薔薇の騎士のことだけではないと、わたしは思いますよ。 ロゼは、静子を見つめ聞いていた。 「あの子はね、地球を愛し、皇帝ズールの魔の手から宇宙を守ってもなお、地球のみんなに、すべて受け入れられることは無かったのです。 タケルの苦悩に想いを馳せ、ロゼは静子の言葉を漏らさず聞こうと耳を澄ませた。 静子は続ける。 「そんな中、貴女は切ないほど、真っ直ぐね。 聞いていたロゼの頬が上気し、清清しい深呼吸がなされた。 静子の謝辞に身に余るものを覚えながら、謙遜するだけの余裕も無かった。 ひとことひとことをかみ締め、たいせつに胸に刻みたかった。 昨日を忘れることは出来ない。 信頼に満ちた静寂が、二人の女性を包んで行く…。
「さあ、もう、眠りましょう。あなたの寝室まで送りますわ」 静子は促して席を立った。 「小母様」 寝室の入り口で、ロゼはもう一度呼びかけた。 「なあに?」 何度でも、聞いていたくなるような、温かな声だった。 「おやすみなさい。今夜は、ほんとうに、ありがとうございました」 通り一編の挨拶しか出来なかったが、今のロゼにはそれが精一杯であった。 (この子も可愛そうに…!) しんと静まり返った廊下に佇み、母は、手を握って泣きじゃくった少女の刹那さを思い、未来を願わずにはいられなかった。
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