エピソード1 − 5 子犬のハンカチ、そして風

 ヴァイオリン様

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと、ロゼはある異変に気付いた。

 耳が聞こえていない。目が見えていない。

 見えている気がしたのは、無意識に超能力を使ったからだ。
 意識して超能力を停止してみる。

(ほら、ルイが何か言いかけた、言葉の最後のほうが、聞こえなくなった。
 それに、一気に暗くなって、何も、見えなくて、だが、夢でないのは確かなのは、触角や嗅覚が現実そのものだという点だ。
 間違いない、わたしは視覚聴覚に異常をきたしてしまっている。)

 ロゼは驚くルイを気遣い、淡々と状況を説明すると、身支度を整え、ルイに頼んで、医師の診察を予約した。

 

 

 

 

 初めは、2、3日もすれば、体や心の疲れも取れ、目や耳も正常に戻るでしょうという、医師の診断であった。
 機能は問題なく、過去に過度なストレスを受け続けた時期に、「見たくない」「聞きたくない」と無意識に願っていた、その過去の願望が今、叶ってしまっている状態に相違なかろうということだった。

 だが、ロゼの症状が改善することはなかった。
 超能力を使うことをストップすれば、たちどころに闇と静寂に包まれた。

 しかし他人といる限り、とても静寂とは呼びがたい、ざわざわとして覚束ない空間に放り出される感じで、さまざまな大きさの恐怖さえあれ、静かに落ち着くという感じではなかった。

 皮膚は暑さ寒さ、熱さ冷たさ、空気の流れ、人の気配、家具や壁の圧迫感を感じるし、指を挟めば鋭い痛みが、腿をぶつければ鈍い痛みが、傷やアザと共に増殖した。

 

 

「超能力の使用はやめてください」

 何度目かの診察時に医師は告げた。

 エスパーにとって超能力を日常的に使い続けることは、体力の消耗を招き一般ウィルス等への抵抗力を落とすだけでなく、エスパー自身が精神的にも常に「非常」レベルであり続けるということであり、それは過度のストレスとして多くの場合、様々な情緒障害を併発する可能性を高める恐れがあった。

 情緒障害など発症させまいというロゼの強い意識を持ってしても、超能力の多用は、現在の状況に置いては彼女が他人の前で常に人当たりよく完璧な性格でいなければならないという強迫観念を逆に増幅させかねず、それは結果的に「目が見えない」「耳が聞こえない」という今の症状の根本原因を深い闇の中に落としかねなかったのだ。

(見たくなかった。聞きたくなかった。…そうかも知れない。
 だが、今のわたしは、他人の言葉が聞きたい。心の声が聞きたい。人の表情が見たい、人の気持ちをもっと、もっと、理解して、尽くしたいのに―――)

 ロゼは己の精神力の弱さが歯痒く、苛立つのを覚えた。

(この、苛立つような感情も、超能力の使い過ぎと関係があるのだろうか。
 常に穏かな気持ちで働き続けたい、わたしはそうしたいのだ。
 どうすれば。マーズ、わたしは、どうすれば。)

 ロゼは病院の屋上の手すりに掴まり、晩春の差すような強い紫外線と風を頬に感じながら、あの旅立ちの日を回想していた。

 

 ――ロゼ、俺と一緒に地球に行こう。

 ――わたしは、ここに残るわ。

 ――え?

 ――ギシン星のため、いえ、地球との絆になるために。

 ――ロゼ…

 ――見て、マーズ。みんなのあの喜びようを―。

    わたしはあの人たちとギシン星の新しい出発のために働くわ。  

    そしてあの人たちと生き抜く。それを生きがいにするの。

    マーズ、またいつか会いましょう。

    お互いに生きてさえいれば、きっといつかは――

 ――ロゼ

 ――さあ、行って、マーズ

 ――ロゼ!

 ――あ、…、

 ――ロゼ…、元気で!

 ――さようなら

 

(マーズはどうしてわたしを地球に誘ってくれたんだろう。
 どうしてわたしなんかといっしょに働きたいと…。

 もしかしたら、わたしのことを考えて言ってくれたのだろうか。
 この星に残れば辛かろう、と…。

 自分のしてきた過去を償うだけの人生は苦しかろう、と…?

 償いならば見知らぬ星ででも出来る、新しい土地のほうがストレスが少ない、と、そんなふうに想ってくれたのだろうか。)

 そうであったかどうかは確かめようがないが、タケルの思いやりの深さを想像し、ロゼは首を横に振った。

(とても真似出来ない。でもいつか、マーズのようになりたい。)

 胸の奥の素直な希望を抱きしめるかのように、ロゼは顔を上げ、両手のひらを心臓に押し当てて祈った。

(マーズのようになれますように)

 そよ風がロゼの髪をさらりと撫ぜて消えていった。
 かすかに街路樹の新緑の匂いがした。

 

 

 

 

 ロゼは立ち止まらなかった。

 皮膚感覚を鍛え、ついに目をつぶったまま歩き、ときに障害者スポーツも学んだ。
 料理し、キッチンやトイレや浴槽など、指で触れては何度も掃除を繰り替えした。自動走行バギーと点字携帯を使いこなし、声帯付近に指で触れて、自分の声が正しく出ているか、他人に不快な思いをさせていないか、いつも気を配った。

 年寄りや弱者にやさしい街づくりにもいくつかの提案をし、今の自分を生かそうと常に前向きにあり続けた。いくつアザが出来ても、火傷や擦り傷が出来ても、ひるむことはなかった。

 ロゼは庭に草花の種を撒いた。毎日、土に触り、葉の成長を確かめ、匂いを嗅ぎ、その日の失敗談を草花に語って聞かせた。

 ルイが、タケルからの私信をロゼに手渡したのは、そんな日々のある慌しい朝だった。

「私信?マーズがわたしに?」

「そうよ、悪いけど先に見せてもらったわ。それで、点字化したのが、これ。
 折角だから、私、ちょっと凝って、ハンカチに刺繍の形にしちゃいました。
 まあ、わたしから、プレゼントだと思ってよ」

 せっせと点字携帯を打ちながら、ルイは悪戯っぽく笑って言った。

「ね、これなら姉さんも、いつでも愛しのマーズのメッセージを持ち歩けるでしょ?
 いっそのこと、姉さんのブレスレットの内側に掘り込んじゃおうかなとも思ったんだけど、外してもらえそうになかったから、それは諦めたわ」

 愛しの、を無視して、ロゼはそわそわと手を伸ばした。

「そ、そのハンカチは何処にあるの」

「はい、これ」

 ルイは愛らしいハンカチをロゼの手の甲に触れさせた。ロゼは反応してそれを受け取り、確かめるように刺繍を探した。

 タケルのメッセージ。

『このあいだ、フローレの生母に出会いました。
 君のことを思いました。
 いつか必ず会おう。
 ロゼへ』

 これだけだった。

「マーズってさ、あんまり、手紙は上手じゃないわね?
 だってこれじゃ意味がよくわからないし。
 フローレって言うのは、地球からの定期公式通信で聞いた、亡命者よね?
 そのおかあさんとロゼと、何が関係あるのかしら。
 …ん?
 あら、ロゼ姉、聞いてないのね」

 ルイは呆れたように、点字携帯を持つ手を止めた。

 音声を自動変換する点字携帯も徐々に開発され、ロゼは開発モニターとして、復帰した職場にも持ち歩いていたが、姉妹の間ではなんとなく、指で入力するタイプのものが、しっくり来ていた。

 ルイがロゼの前でもひとり言を声に出して言うことが出来るのが気楽だったのかも知れない。ロゼが目と耳を発症してから、軽口なルイも見た目より姉の状態に気をつかい、点字で打つ言葉をなるべく選ぼうとも考えていた。

 声を出しながら打つルイの点字は、今、ロゼに読み取られていなかった。

 ロゼはタケルのメッセージを抱きしめるように、ハンカチを胸に当て、両手で覆っていた。
 大切なものをそっと守り祈るようなしぐさで、重ねた両手に軽く顎をつけ、それは母親が赤ん坊の手にそっと頬ずりするしぐさをルイに連想させた。

(優しい顔するんだな)

 ルイはあらためてそう思った。自分に気付かない姉にもっと近寄ってみた。
 姉はまだ頬ずりを続けていた。

(可愛くなったかも知れない)

 ロゼのくすみのない肌、少し上気した頬、微笑みに揺れる睫を、遠慮なく、まじまじと見つめた。

(目が見えているときは、こんなしぐさ、しなかったものね…姉さん)

 偶然にも目が見えなくなって、人目を気にしない瞬間を持てるようになったことは、ロゼにとって、ある意味、収穫と言えないこともないのかも知れない、と、ふと考えるルイであった。

 ちょっと、からかってみたくなった。

 ルイは思い切り顔を近づけると、殺気のない妹に対して見せる、その隙ありの頬に、軽くキスをした。

「チュッ」

 ルイにはその音は軽快に、健康的なジョークの明るさを持って響いた。

 ロゼには当然、聞こえなかったが、妙な感触に、完全に戸惑う姉の表情にルイは満足そうに爆笑した。

「なに、なに、今の、ルイ、あなたのしわざね…?」

「あっはっは…、可愛いなあ、姉さん、もしかして、マーズだと思った?」

 ルイは速攻で点字携帯で「今のはマーズのキスじゃないわよ」と打った。

 点字携帯に触れたロゼは頬を真っ赤に染めると、烈火のごとく、抗議するように、クッションやらテーブル拭きやら、ルイに向かってポンポン投げつけた。

「あっはっは!ごめん、ごめん、姉さん、うわ、見えてないのによくわかるのね、きゃはは」

 

 

 

 

 仕事を早めに切り上げて、病院に寄った帰り道。
 家の近くの路地で、ロゼは自動走行バギーを停め、佇んでいた。

 ロゼは迷っていた。

 医師の言葉を頭で繰り返す。

「精神的に治らないと、今の症状も、良くなることは無いでしょう。
 だれか、心の底から貴方の苦悩を理解して、受け止めてくれる存在はいませんか。
 いるのならその人の協力を甘んじて受けるべきです。話して聞いてもらうことです。」

 ロゼは悩む。マーズならその存在になりえる。だけれど迷惑をかけたくない。

 目や耳が治らなくても、日常生活が出来、仕事をして人のために働けるのであれば、このままで良いとさえ思った。まだ、日常生活も完璧には出来ない。仕事も部分的にしか出来ず、自分としてはとても迷惑をかけていると思っている。だが、諦めずにもっともっと練習すれば、いつかは…?

 いや、と、頭を振る自分もいた。どこまでやれるか、果たして目や耳が働いていた頃の自分と同じぐらい、仕事が出来るようになれるのか?自己満足ではなく、本当に人の役に立てるようになれるのか。

 マーズには勿論会いたい。でも本当はそれはもっと自分に自信を持てるようになってから、何十年先でも、死ぬ間際でも構わないと本気で思っていた。

 とても自分ごときの個人的な症状のために、忙しい彼を呼びつけるなど考えられなかった。地球に出向くこともはばかられた。

「くうーん、くうーん」

 足元に生暖かな、小動物の毛の感触を得て、ロゼははっとした。
 きっと子犬に違いない。しっぽを振って、体をこすりつけ、甘えているようだ。

 ロゼの脳内を、あの「祭りの日」の非武装市民爆撃の光景が蘇った。
 あのとき絶えた小さな命、その犬を彷彿とさせる、似た毛並み。

 

 ふいに、路地の壁に人の声が反射する気配を感じると、次の瞬間、子犬のぬくもりは消え、子犬がジャンプしたような小さな振動が、ロゼに伝わった。

 小さな女の子に名を呼ばれた子犬がかけていき、幸せそうに抱きしめられたのであった。
 女の子からは、ふわりとしたスカートの洗濯したての匂いと、髪からこどもシャンプーの匂いがした。

 すると、今度はドシンといった大きな振動と、助けを呼ぶような、甘えたオーラが感じられる。

(きっと女の子が転んで泣いたんだわ)

 ロゼは勘を働かせ、振動のしたほうに壁伝いに歩み寄っていった。

 女の子の服の感触があり、ロゼは、かがんで、慎重に触り、女の子が膝をすりむいて泣いているのを確かめた。

「ほら、だいじょうぶよ」

 微笑んでやさしく声をかけると、ロゼはハンカチを取り出し、傷を押さえてやった。
 女の子の呼吸が落ち着いて、今度は何かにちょっと集中している気配に変わる。

「わあ、子犬の模様。可愛い!」

 ロゼは指で軽く触れていたその子の唇の動きから、「かわいい」と言ったらしいことを理解した。

「そう?可愛い?このハンカチ、気に入った?」

「うん、子犬の模様」

「子犬の模様?…そうだったの」

 ルイが選んで刺繍をしてくれたそのハンカチが、子犬の模様だということは、ロゼは今まで知らなかったのだった。

 女の子の頬が、盛り上がっている。きっと、ニッコリしているに違いない。

「このハンカチ、あなたに、あげましょうか?」

 タケルのメッセージの点字入りだということは分かっていた。

 それでも、たとえこのハンカチを手放しても、タケルのやさしさやルイのプレゼントを忘れることにはならないとロゼは考えた。

「ほんと?わあ、うれしい!おねえちゃん、ありがとう」

 女の子はハンカチをパっと握ると立ち上がり、走り去って行ってしまった。子犬の小さな足取りがそれを追った。

 

「…ありがとう、だって…」

 ロゼは目を閉じ、今の触れ合いの、輝いたイメージをそっと抱きしめるようにして微笑んだ。自分はなにもしていない。ハンカチをあげただけだ。けれど、こどもが笑ってくれたことが嬉しかった。

 復興。

 この星群の復興に尽くしたい。

 小さな命、平和を守り慈しみたい…。

 わたしに何が出来るだろう。もっと強くなりたい…。

 風は、路地に佇むロゼの頬から、キラキラした雫を宙に散らせた。

 そのとき、意外にも、一瞬、ロゼは、風の中に、ある声を耳にしたのだ。

 

「ロゼ…マーズに会って話せば良いのに…」

 

 その声を忘れるわけがなかった。

 優しいそのささやきは、マーグだった。

 ロゼは思わず超能力を使って、あらゆる方向に目を走らせる。マーグの声がしたと思われる方を、振り返る。

 そこに、姿は、ない。

 ロゼは夢中で駆け出していた。
 路地のタイルの欠けた部分に靴が引っかかり、体が宙を舞って地面にたたきつけられた。

 痛い。

 生きているから痛い。
 そうだ、これが現実だ。マーグの声は、幻にすぎない、きっと自分の願望が作り上げた空耳だ、だが、だが…!

 

 どうして空耳であんな声を聞いた?

 どうしてあんなにやさしいことを言ってくれると思った?

 どうしてわたしなどを許し、心配してくれていると思った?

 自分が殺されてどうして相手を思いやれる?

 マーグは絶対にわたしを赦せないはずだ…それに。

 

 転んだ体勢のまま、悔しげに地面を叩き、髪をかきむしるロゼの頬を、涙が次々と転がり、ボタボタと地面に落ち、吸い込まれてゆく。

「マーズになんか、会えるわけが、マーズになんか、会って話せるわけが…」

 マーズは生きて今も苦しんでいる。

 兄に会えない哀しみとともに生きている。

 誰よりもやさしい笑顔の奥で心はきっといつも泣いている…。

 マーズ。

 泣いているなら抱きしめてやりたい。いつだってそうしたい、何でもしてあげたい、けれどわたしにはその資格は…。

 

 通りがかったルイが、声をかけられずに立ち尽くしていた。
 ルイが見る、ロゼの初めての姿がそこにあった。

 声を殺さずにロゼが泣き続けていた。

 地面を叩いてはいるものの、不思議とそこに破壊的な雰囲気は感じられなかった。
 号泣とはまた違う、優しくて哀しげな姿であった。

 まるで涙の雫を雨として大地に還すかのように、ロゼは泣いていた。

 耳が聞こえなくなって初めて、こうやって泣くことが出来たのか、
 聞こえる状態では、周囲に気遣って、泣けなかったのか。

 ロゼはいつまでもいつまでも、肩をふるわせて泣いていた。

 

 嗚咽をそっと包むかのように、通りの一角からは、足を失った壮年の音楽家による、無料のアコーディオン演奏が鳴り響いていた。

 先ほどの子犬が駆け戻り、心配そうにロゼを覗き込むと、体を摺り寄せて甘え始めた。

 ロゼはそっと子犬を撫ぜた。

「…ありがとう。おうちに、お帰り。ね。うん、わたしも、ちゃんと、帰るから。ね。」

 ロゼは涙を払うと、立ち上がり、微笑んで、自分のバギーを探し、乗った。

「『必ず会おう』って…言ってくれたんだ。
 …もう、少し。もう、少し、がんばって、…がんばって、ちゃんとできるようになったら。…なにかが、ちゃんと、できるように、なったら……。」

 腕で涙を拭き払い、息を整えると、ロゼは出発した。

 

 

太陽がすべての物の影をもっとも濃く写し出す、夏至間近であった。

 

 

 

 

エピソード1 end

 

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